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《ふしぎ工房症候群 妹の遺言》2


ふしぎ工房症候群 

妹の遺言 


CAST:岸尾大辅


3.親戚


過労だった、もともと体の丈夫でない母は無理をし過ぎた、父の暴力に耐え、子を育て、家計を支えることに、母の体は耐えられなかったのだ。葬式の日眠ったような母を見て、妹がお母さんいつ起きてくるのかな、と僕に尋ねた。僕は妹を抱きしめて泣いた、釣られて妹も泣き始めた、僕たちは葬式の間中泣き続けた。


その後、僕たちは親戚に預けられた、母は早くに両親を亡くし、一人娘でもあったから、その遠い親戚に。初めて見る家、初めて見る顔、僕たちは歓迎されていないということはすぐにも分かった、僕たちは狭い部屋を宛がわれ、食事も家族とは別という生活が始まった。慣れない環境に、妹は暗く沈むばかりで、夜になれば決まり寝言でお母さんのところに帰りたいよ、とうなされる。


僕は何度もはっとして目覚め、その度に涙を流しながら、妹を抱きしめた。僕がしっかりしなければ、父親の代わりを、母親の代わりを頑張って努めよう、そう思いながら眠りにつく毎日だった。それでもまだ最初はよかった、いつまでも懐く様子のない兄弟におじおばは腹を立て、そのうち食事も満足に与えられなくなった。お腹がすいたと泣く妹に、僕は自分の分をわけ与えてる毎日だった。ある時、妹がお菓子を盗み食いしたと折檻された、僕は猛烈に反抗した。お菓子ぐらいいいじゃないか、おばの返事は拳固だった、僕は殴り倒された上に、罵声を浴びせられた。居候のくせに、置いてもらっているだけでもありがたく思えと。僕はにらみ返すのが精一杯だった。力で抵抗することはできる、しかしそれでは本当にここを追い出されてしまう。そうなれば、僕たちには行く場所がない、俯き、自分の震える拳を押さえつけるようにじっと見た。そうだ、中学を出たら働こう、そうすれば自分の力で生活できる。僕たちは晴れて自由の身になれる、僕はそう決心し歯を食いしばった。


それからの三年間は、気の遠くなるような長さだ、朝は妹を小学校に送ってから登校した、下校時間になれば、妹を迎えに行く、妹が心配だったからだが、妹自身、朝の別れの時に泣き、僕が迎えに行くまではいつまでも一人で、ぽっつんと校庭にいた、僕の顔を見ると、満面の笑顔で駆け寄ってくる。それ自体は僕にとってむしろ喜びだったし、励みでもあったが、困ったのはやはり食事だった。この地域では小学校は給食だったが、中学校は弁当持参だったからだ、もちろん、おばが僕に弁当を持たせてくれるわけもない、毎日飢えを凌ぐために、水をがぶ飲みした、朝夕に出る僅かな食事ではとても足りなかった、お金さえあれば、中学生で稼ぐ方法はないものか?考えた末、浮浪者が空き缶を集めたり、ゴミ箱から読み捨てられたり雑誌を拾い集め、路上で売っているのを真似てみることにした。学校帰り、妹を連れて、空き缶や雑誌を拾い集めている姿は母親が生きていたら、とても見せられない姿だったが、僕は必死だった。


お兄ちゃん、これどうするのと聞かれて、これでお菓子が買えるからさ、と答えると、妹は本当に嬉しそうだった、その笑顔だけが、僕の支えになっていた。


ところが、はじめて見たものの、まったくうまく行かない、空き缶を業者に持っていても、お前中学生だろうと言われて、金を払ってもらえない。路上で雑誌を売っていると、すぐさま補導された、警察所に迎えに来たおばに罵倒され、家に帰れば、おじに殴られた、晩飯は抜きだと言われた。悔しさと空腹で部屋で丸くなって泣いた、すると妹が心配そうに近づいてきて、茶碗いっぱいと自分のご飯を差し出した。先から腹がぐうぐう鳴っている、妹にもばればれだ、しかしそれを受け取るわけにはいかない。


大丈夫だ、兄ちゃんは腹は減ってるんじゃなくて、お腹の調子が悪いだけだ。しばらく寝てれば治る、そう言って、布団を被った、情けなくて涙が出た。妹に知られたくなくて、こっそり泣いたつもりだったが、いつの間にか潜り込んできた妹が隣で泣いていた。

 

03.親戚


   过劳。本来身体就不结实的母亲,太勉强自己了。忍受父亲的暴力,抚养孩子,支撑家庭的重担,母亲的身体已经承受不住了。葬礼那天,看着仿佛睡着一般的母亲,妹妹问我:“妈妈什么时候才能醒来呢。”我抱紧妹妹,哭了。接着妹妹也哭了起来。我们在整个葬礼的过程中,一直哭个不停。


    之后,我们两个被寄养在亲戚的家里。母亲很早就失去双亲,又是独生女,所以我们被送到了远房亲戚那里。第一次见的家,第一次见的脸,马上就明白了我们是不受欢迎的。我们被安排住进了窄小的房间,过起了连吃饭也和家人分开的生活。因为难以适应的环境,妹妹变得越来越消沉,晚上的时候一定会说梦话,轻轻地说着“好想回到妈妈那里”。我好几次都被惊醒,每次都流着泪抱紧妹妹。我必须振作,要代替父母努力工作,每天都这样想着入睡。即使这样,开始还算好的。因为始终不与他们亲近,伯父和伯母对我们生气了,连食物也开始克扣,每天我都把自己的那份分给哭着说肚子饿的妹妹。有一次,妹妹因为偷吃了点心,遭到了打骂。我激烈的反抗道:“只是点心什么的,好好说不就行了么。”伯母的回应是拳头。把我打倒在地还破口大骂道:“吃闲饭的,让你们呆在这里就应该感激了。”我竭尽全力对她怒目而视。虽然可以用力气来反抗,但是,那样做的话就真的会被赶出去了,那样的话,我们两个没有可以去的地方。我低着头,为了压制住挥拳的冲动,一动不动的看着自己颤抖的拳头。是啊,初中毕业以后工作吧,那样就能依靠自己的力量生活了。我们就能开心地恢复自由了。我咬紧牙关下了这样的决心。


  这之后的三年,仿佛失去意识一样长。早上把妹妹送去小学再去上学,放学后再去接妹妹。本来是因为担心妹妹,而妹妹自己,早上分开的时候会哭,放学的时候,在我去接她之前一直一个人孤零零的在校园里等。看到我,就满脸笑容地跑过来。这些本身对我来说既是高兴的事,也是鼓励,但令人头疼的还是吃饭。因为这里小学生是供给食物的,中学是自己带便当。当然,伯母不可能让我带便当,每天为了忍耐饥饿,喝很多的水。早晚吃的少量饭食,实在是太不够了。只要有钱的话就好了。中学生就没有赚钱的方法么,考虑之后决定仿照流浪汉收集空瓶子,和别人看完后扔进垃圾箱的杂志,在街上卖。放学回家的路上,带着妹妹捡空瓶子和旧杂志的样子,要是母亲还活着的话是很不愿让她看到的,但是我是真的尽了全力。被问道“哥哥,为什么要做这个呢?”的我回答道:“这样就可以买点心了。”听了我的话,妹妹好象真的很高兴。只有这个笑容成为了我当时的支柱。虽然开始做了,但是很不顺利。把收集来的瓶子交给回收者,对方说着“你是中学生吧”而不付给我钱。在路上卖杂志立刻就被收容教育了一番。被来警察署接我的伯母痛骂,回到家之后被伯父打了,还说“没有你的晚了。”因为不甘心又肚子饿,在房间里蜷着身子哭了。然后,妹妹担心地过来把自己的饭递给了我,从刚才开始肚子就咕咕的叫着,连妹妹也发现了。但是我不可能接受这个。“没关系的,哥哥不是肚子饿,只是肚子有点不舒服罢了,睡一会儿就会好了。”这样说着盖上了被子,不争气地流下了眼泪,不想让妹妹知道,本打算悄悄地哭的,不知什么时候钻进被子的妹妹也在我的旁边哭了起来。